語彙のジレンマ 第90話
0.語彙のジレンマ
こんにちは!!
東京はしっかり晴れました!!
久々の晴れで嬉しいですね!!笑
そしてGoogleフォームに様々なコメントをくださる方、ありがとうございます。
いただいたコメントに関しては、一つひとつしっかり膨らませてブログにしたいなあと思っているので少々お待ちください。
今日は散歩をしていたのですが、こんなことを考えていました。
〇使用できる語彙が多いのは良い事なのか。
〇語彙が増えることで自分を形容できなくなるのではないか。
少し述べようと思います。
1.言語には世界を区別する力がある
私は、言語は世界を区別するものであると考えています。
例えば、「ホワイトボードを見てください。」と先生が言う時、あなたは視界に映るであろう膨大な要素から見事ホワイトボードだけを切り取って認識することができると思います。
つまり、言語は世界を区分するという考え方。詳しく気になる方はスイスの言語学者であるソシュールについて調べてみてください。
例えば、母国語が違う人が2人いるとします。2人に同じ鶏の鳴き声を聞かせた実験があります。その聞き取った鳴き声を文字化してもらったら、その聞き取った音は全く違うようなのです。母国語(言語)の差異が、物事の認識(五感?)の差異に繋がるのです。「コケコッコー」と聞こえる人(我々ですね)もいれば、「クッカドゥードゥルドゥ」と聞こえる国の人もいるようです。
もう1つ例を。
例えばあるものの気持ち悪さ(気持ち悪いとはなにか?とも思いますが…。)を表すとき、私たちは「キモイ」と表現します。「キモイ」ということで、あるものの気持ち悪さだけを切り取って認識できます。
「可愛い」という言葉があります。花子さんは性格が可愛い、というとき、あなたは花子さんの性格の可愛さのみを切り取って認識できると思います。そしてこれは「キモイ」の反対の概念でもあると感じるのです。
ところが数年前「キモかわいい」という言葉が登場しました。「キモイ」と「可愛い」という相反する言葉が「キモかわいい」という言葉になりました。これによってこびと図鑑の、あのなんとも言えない気持ち悪さ、数十年前は形容できないモヤモヤした感情を言語化することになったのです。
2.認識の複雑化
しばらくして、「激おこプンプン丸」という表現が誕生し、それに追随する形で数段階の「怒り」を表す表現が誕生しました。
「憤怒」というものは、どこまでが激おこプンプン丸で、どこからムカ着火ファイヤーなのでしょう。両者を区分しているのは何なのでしょう。
今度から目の前でぶちギレている人に、「あなたは今、激おこプンプン丸ですか?ムカ着火ファイヤーですか?」と尋ねてみましょう。ヒントが得られるかもしれません。
まあ余談はさておき、極論だとは思います。
しかしイメージはできると思うんです。
物事や概念が分割されすぎて収集がつかなくなってしまいましたね。
3.ちょっとした懸念
私は、この言語の複雑化にちょっとした懸念を抱いています。
まず認識できる範囲が拡大したこと(=語彙が増えること)は良い事だと思います。
その影響は数知れず、多方面に及びます。
就活生であれば、「転職は想定内」であると様々な本に書かれています。
転職に関するこんな本も大ヒットしましたね。
つまるところ、会社に従属するのではなく自分自身でキャリアを構想することが重視されました。
この問題を突き詰めると、自己分析の根本の部分である「私は何者か?」という問にぶつかると思います。
自分でキャリアを描くことは、主体性の徹底です。自分で動かないと職はありません。それゆえに、「自分が何をしたいのか?」ということを認識する必要が出てきます。
ここからが懸念なんです。物事に対する認識が細分化したら、語彙がこのまま増え続けたら、自分自身を端的な言葉で定義できなくなるのではないか。
「私は主体性がある」と一概に言ってもいずれ主体性もさらに細分化されるかもしれません。
つまり言葉の因数分解が徹底されるかもしれません。適度な因数分解ならまだしも、そのうち自分が何者かわからなくなりそうな恐怖もあります。
まあこれらは極論で、そこまで語彙をストックできることはないと思いますが、ありえない話ではないのかなと思います。
そんな語彙が増えるジレンマを抱きながら、語彙が増える習慣であろう読書をしたいとも思います(笑)
かなり極論になってしまいましたが、なにか意見がある方、反論がある方、感想や不満等ありましたら以下のGoogleフォームで教えてください!!
https://forms.gle/jmAgnCXxeixBKN4m9
それでは本日もありがとうございました🙇🏻
明日もよろしくお願いします!!