「道徳」を学ぶべき2つの理由 第56話
〈想定している読者〉
・学問(特に哲学)に興味がある方
・自分の「道徳観」について考えたことがない方
・善悪の明確な判断基準がない方
0.今日の概要
こんにちは!!
今日からはイマヌエル・カントの『実践理性批判』より、ひとつの「道徳観」を解説したいと思います。
特に「イマヌエル・カントは~といったよ!」という雑な解説ではなく、「流れ」がわかるような解説をしていきます。
哲学において大事なのは、思想の結論ではなく「どこに着目したか」だと思うためです。
哲学者が十人十色であるのと同様、述べている「真理」というやつも十人十色です。
現代において大切なのは、「持っている知識の多さ」ではなく、「どこに着目するか」であると考えたためです。
そのため、まずは「思想の流れ」をたどり、最後に自分の視野を広げるために「思想の結論」まで解説させていただきたいと思います。
それではまず前提として、今日は「道徳観」を学ぶ目的について自分の見解を示します。
1.道徳観を持たない人の末路
まず道徳観とは、「善悪の基準」のことです。
なぜこれを解説するのか。以下理由です!
理由①人間の価値観の根本を支えるものであるため。
理由②いざというときに迷わないようにするため。
1-A 価値観の根本とは?
理由①について具体例を述べていきます。
この世にはたくさんの主義主張があります。
身近な例でいくと、
給食は残して良いのか?悪いのか?
悪口は良いのか?悪いのか?
結婚はするべきか?しなくてもよいか?
このようなものは経験から形成される価値観に基づいていると自分は考えます。
この価値観を支えるものが「道徳観」と自分は考えております。
まずはじめに「善/悪」の基準があり、それに基づいて価値判断を下すということです。
この「善/悪」の判断基準がブレると同時に価値観もブレます。
道徳観は家を作る際の土台にあたるものであるとさえ思うのです。
1-B 人はなぜ迷うのか?
理由②について補足します。
「人が迷う」理由として、自分は以下の条件を考えています。
条件①自分の絶対的な価値観に引っかからないとき。
条件②自分の価値観の「例外」を認めてしまうとき。
絶対的な価値観
条件①の補足です。
「人を殺してはいけない」という価値観があるとします。
この場合、誰かから「アイツやっちまおうぜ」と言われても、断ることができるでしょう。
しかし、「ダイエットしてんの?別に一日くらいいいだろ。ケーキ食べようぜ。」
このように言われて迷う人がでてきます。
これはその人の中で「ケーキは絶対食べない」という判断基準がないからであると考察します。
価値観の例外
条件②について補足します。
価値観の例外とはなんでしょう。以下のとおりです。
「アイツうざいからいじめようぜ。」と言われても断る人がいるとします。
「いじめ」=「悪」という絶対基準です。
しかし、「お前もアイツにいじめられただろ?うざいから仕返しにいじめようぜ。」
このような場合は「例外」とする人がいるかも知れません。
「自分が被害を被った場合はいじめても良い。」と。
これが条件②です。
2.道徳を学ぶ理由
いかがでしょうか。
道徳を学ぶ理由は
理由①人間の価値観の根本を支えるものであるため。
理由②いざというときに迷わないようにするため。
②の条件として、
条件①自分の絶対的な価値観に引っかからないとき。
条件②自分の価値観の「例外」を認めてしまうとき。
というまとめになります。
常に迷いなく絶対的な価値基準に基づいた判断を行い、迷わないようにするためにも、道徳観について思想家の意見を聞くのは有効であると思います。
3.次回予告
明日から本格的に「イマヌエル・カント」の思想に入っていきます。
特に
・カントの道徳構築のプロセス
にコミットして解説をしていきます。
拙い部分もあるかと思いますが、何卒よろしくおねがいします!!
今日も読んでくださりありがとうございました!!